超短編小説 ケーキ日和
ケーキ日
一度画面から顔を上げてしまうと、目は暗い室内になれてしまうのだろう。画面がやけに明るく感じる。
一人残ってパソコンにむかう度に、画面を暗くすることはできるのだろうかとぼんやり思う。
目を細めながら画面右下をみると二十三時ももうすっかり過ぎていた。最後の生徒が帰ってから一時間、最後の講師が帰ったのはいつだったろうか。
最近は残業が多い。
受験生も気合いを入れ始めた五月。校舎長だって生徒と一緒に戦うのだと思うと、体にピリッとしたものが走る。
ぐぐぐぐぐ・・・・・・
「ふぅ」
心と身体は必ずしも同じ意見じゃないみたいだが。
お腹から悲鳴こそすれ、お昼ご飯も遅かったため空腹の方はまだ我慢もできるが、渇いた喉はもう限界に達している。
今日済ませておきたい仕事の量を考えても、この下にあるコンビニで軽食とコーヒーを買っても無駄遣いとはされないだろう。
しかし、それはなあ・・・・・・。
ためらう理由は一つ。今コンビニのレジにいるのはあいつだからだ。
きのうは十六歳になる一人娘の誕生日だった。帰宅時最寄り駅で見た娘の横に、長めの黒髪にすらっとした体型の男がいた。
ただ会話しているだけなのに、二人の世界が感じられた。あのときの娘の笑顔が再生される。
十六歳にもなるのだ。彼氏が今までいなかったことの方を(いなかったのか知らなかったのかは分からないが)良かったと思うのがいいのだろうし、もちろん娘のことは愛しているが、困らせるほどに溺愛しているつもりはない。
だがこの脳内再生は昨日から何度目か。
そしてあの黒髪くんが、いつもお世話になっているコンビニの店員さんだと気づいたのは、今朝最寄り駅で向かいのホームをぼんやりと見ていたときだった。
昼食は駅のコンビニでサンドイッチを買った。
そのときにペットボトルの飲み物を選べば良かったと後悔しても、もう遅い。
一時間我慢するか。
目をつむると、娘がまた笑った。
椅子を引く。
馬鹿らしくなって思わず口角も上がった。こだわって店にいかないでおかなければいけない話でも、いかなくて済むような店でもない。
外は冷えた。昼間はあんなに暑かったのに。五月は困った天気が続くなあ、と思った後、来月はもっと困った天気が続くのだと気づいた。
レジに背を向けて作業する彼の他に店員さんの姿は見受けられない。冷えたブラックの缶コーヒーと、何を買おうか。
ここはいつもパンの品揃えが悪いのに加えて、こんな夜である。『カメパン』一〇二円だけがずらりと並んでいた。
甘いものがいい。
ゼリーの横の、ヨーグルトの横の、シュークリームの横の、いちごショートケーキに手が伸びた。
自分にケーキを買うだなんて何かのお祝いの日か、今日は。もうなんだっていい——
パシッー
ショートケーキが床に落ちた。ひっくり返ることもなく真っ直ぐに。
それでも床の上の透明なパックは、クリームにまみれて白くなっていた。
それはまるで、白い雪が吹き付けた窓ガラスのように見える。
おそらく手が触れたいちごのショートケーキが、その奥にあったいちごのショートケーキを押したのだと思う。
「あのお、大丈夫ですか」
他に客のいない店内、それにレジからも見える位置。当たり前に店員さんが、もちろんその、一人しかいない店員さんが、声をかけてきた。
「すいません。これ買いますので」
情けない笑い顔に見えるのかもしれないが、なんとなくおかしくて笑った
「や・・・・・・こっちのきれいな方買ってもらっていけますよ・・・・・・たぶん。残ったのも、もう廃棄になりますし」
眉尻を下げて、彼も何だか情けなく見える笑顔をしていた。
「え・・・・・・いいんですか」
思わず、高い声が出た。
「ケーキってなんか特別じゃないですか。というか僕、きのう誕生日の友達にケーキあげたんです。そしたらすっごく喜んでもらえて。」
並んだケーキを見ながら話す彼は、やっぱり眉尻を下げながら、今度はうれしそうに微笑んでいた。
マヒロのことだ。
「あ、すいません。ってことで何とかしとくんで大丈夫です」
彼はバイト店員の顔に戻ってこっちを見た。
大丈夫かどうかさっきまで聞かれていたのはこっちの方だったのに、いつの間にか彼の方が大丈夫になってくれている。
「ありがとう」
はいっと頷き、黒髪くんは手際よくショートケーキのバーコードを通した。
「ありがとうございまあす、またお越しくださいませーっ」
背中で声が響く。
今日はケーキを食べるのに丁度いい日かもしれない。