ドクのムシ
ドクのムシ
「寝るのがスキ?寝てるんじゃなくて、考えてるんだよ。色んなことを。考えるのはスキさ。時々眠ってしまうこともあるけどね」
色鉛筆の緑みたいな緑に色鉛筆の黄色みたいに黄色い水玉模様のクッションの上で、そう言ってズックは目をつむった。
マイクッションを持ち歩いているらしく、頭の下で手なんかくんでいる。
白にピンクのストライプのハーフパンツ。その下は黒いタイツ。水色のジャケットに赤い蝶ネクタイ。極めつけは額の上のシルクハット。
「ピエロかマジシャンみたいだ。その中からハトでも出てくるのかい?」
「ハトは出てこないね」
目は閉じたまま、クッションの下から引き抜いた左手でハットを大げさに額からおろす。
と、彼の額には透明の袋に入った黄色いキャンディが二粒のっているもんだ。
あげよう、とそのうち一粒をオレの方にとばす。
「ほ……」
オレの声を聞くなり、にやっと笑ってぐるっと横に回転して、今度はクッションを大げさに掲げた。
パラパラとクッションから数粒キャンディが落ちる。下には大量のキャンディ。
まったく拍子抜けだ。
「世の中なんてこんなもんさ」
*
「そうだ、世の中って理不尽だよねえ」
「うん?」
「ズーーーっとまじめに生きてきたやつと、ズーーーっと遊んできて急にまじめにがんばり出したやつじゃ、どうして後者が偉いみたいなんだ。べつにオレはどっちでもないんだけど」
「……ふふ。あんたにはハートが左胸についたその白いTシャツがよく似合ってるよ」
「そお、嬉しいなあ。これお気に入りさ」
「分かるけどね、そんなに毎日着てちゃあ」
「ねえズック、さっきの話だけどねえ」
「どのさっきだい」
「君がたまに家に帰るときに会うきれいな君のお姉さんとの会話が、まるで生活に疲れて離婚した夫婦の何十年か後の会話みたいだ、って話のさっきだよ」
「ああ」
「オレ、二ヶ月前にそううやって離婚したんだよ。言いづらいとか思わなかったの」
「はは、確かに。おっそいツッコミだけどそのとおりだ。君がかりなちゃんなら素早く攻撃を受けたろうなあ」
「多分ね。かりななら、ちょっと?ズックさん?あたしたちの前で今それを言うの?ってまくしたてただろうね」
「さみしいかい」
「さみしくないことはないけどね、当たり前だったもんがいなくなっちゃったわけだし。娘のことも気になるよ」
「へえ」
「オレの待ち受けの写真だって七月で止まったまんまだ。大きくなってるんだろうなあ。幼稚園児の成長って言うのはホントに早いのさ」
「後悔は」
「後悔はないね。ナレだよ。ナレ。結婚する前は別で住んでるのが当たり前だったし、出会う前はいないのが当たり前だった。かりなが生きづらいなら元の暮らしに戻すのがいいに決まってる。誕生日にはまた会いにいくさ」
「へえ」
「それに。もし別れていなかったら、君がこの家に泊まることもなかっただろうし。かりなは君を泊めなかったと思うよ」
「当ったり前だ。俺がかりなちゃんでも泊めない。こんなにもカラフルで知らないおじさんだもの。まして四歳の娘がいて。怪しい」
「ズック、君は自分の身なりが怪しいって思っていたのかい」
「あのなあ。俺にだって常識はあるさ。俺は自分が変なやつだってみんなに教えてあげてんだ。ドクをもったムシみたいだろ。それでも泊める変人は知らない」
「ふふ、殺さないでくれよ?」
「身を守るときに使うんだよ。ドクを撒くようなムシはいない。ああでも、君を食べたくなったら分からないな」
「こわいもんだ」
「もう少し痩せた方がよさそうじゃないの」
「これでもかりなと別れて四キロは減ったんだ」
「へえ、気づかないもんだね」
「そうなんだねえ」
超短編小説 ケーキ日和
ケーキ日
一度画面から顔を上げてしまうと、目は暗い室内になれてしまうのだろう。画面がやけに明るく感じる。
一人残ってパソコンにむかう度に、画面を暗くすることはできるのだろうかとぼんやり思う。
目を細めながら画面右下をみると二十三時ももうすっかり過ぎていた。最後の生徒が帰ってから一時間、最後の講師が帰ったのはいつだったろうか。
最近は残業が多い。
受験生も気合いを入れ始めた五月。校舎長だって生徒と一緒に戦うのだと思うと、体にピリッとしたものが走る。
ぐぐぐぐぐ・・・・・・
「ふぅ」
心と身体は必ずしも同じ意見じゃないみたいだが。
お腹から悲鳴こそすれ、お昼ご飯も遅かったため空腹の方はまだ我慢もできるが、渇いた喉はもう限界に達している。
今日済ませておきたい仕事の量を考えても、この下にあるコンビニで軽食とコーヒーを買っても無駄遣いとはされないだろう。
しかし、それはなあ・・・・・・。
ためらう理由は一つ。今コンビニのレジにいるのはあいつだからだ。
きのうは十六歳になる一人娘の誕生日だった。帰宅時最寄り駅で見た娘の横に、長めの黒髪にすらっとした体型の男がいた。
ただ会話しているだけなのに、二人の世界が感じられた。あのときの娘の笑顔が再生される。
十六歳にもなるのだ。彼氏が今までいなかったことの方を(いなかったのか知らなかったのかは分からないが)良かったと思うのがいいのだろうし、もちろん娘のことは愛しているが、困らせるほどに溺愛しているつもりはない。
だがこの脳内再生は昨日から何度目か。
そしてあの黒髪くんが、いつもお世話になっているコンビニの店員さんだと気づいたのは、今朝最寄り駅で向かいのホームをぼんやりと見ていたときだった。
昼食は駅のコンビニでサンドイッチを買った。
そのときにペットボトルの飲み物を選べば良かったと後悔しても、もう遅い。
一時間我慢するか。
目をつむると、娘がまた笑った。
椅子を引く。
馬鹿らしくなって思わず口角も上がった。こだわって店にいかないでおかなければいけない話でも、いかなくて済むような店でもない。
外は冷えた。昼間はあんなに暑かったのに。五月は困った天気が続くなあ、と思った後、来月はもっと困った天気が続くのだと気づいた。
レジに背を向けて作業する彼の他に店員さんの姿は見受けられない。冷えたブラックの缶コーヒーと、何を買おうか。
ここはいつもパンの品揃えが悪いのに加えて、こんな夜である。『カメパン』一〇二円だけがずらりと並んでいた。
甘いものがいい。
ゼリーの横の、ヨーグルトの横の、シュークリームの横の、いちごショートケーキに手が伸びた。
自分にケーキを買うだなんて何かのお祝いの日か、今日は。もうなんだっていい——
パシッー
ショートケーキが床に落ちた。ひっくり返ることもなく真っ直ぐに。
それでも床の上の透明なパックは、クリームにまみれて白くなっていた。
それはまるで、白い雪が吹き付けた窓ガラスのように見える。
おそらく手が触れたいちごのショートケーキが、その奥にあったいちごのショートケーキを押したのだと思う。
「あのお、大丈夫ですか」
他に客のいない店内、それにレジからも見える位置。当たり前に店員さんが、もちろんその、一人しかいない店員さんが、声をかけてきた。
「すいません。これ買いますので」
情けない笑い顔に見えるのかもしれないが、なんとなくおかしくて笑った
「や・・・・・・こっちのきれいな方買ってもらっていけますよ・・・・・・たぶん。残ったのも、もう廃棄になりますし」
眉尻を下げて、彼も何だか情けなく見える笑顔をしていた。
「え・・・・・・いいんですか」
思わず、高い声が出た。
「ケーキってなんか特別じゃないですか。というか僕、きのう誕生日の友達にケーキあげたんです。そしたらすっごく喜んでもらえて。」
並んだケーキを見ながら話す彼は、やっぱり眉尻を下げながら、今度はうれしそうに微笑んでいた。
マヒロのことだ。
「あ、すいません。ってことで何とかしとくんで大丈夫です」
彼はバイト店員の顔に戻ってこっちを見た。
大丈夫かどうかさっきまで聞かれていたのはこっちの方だったのに、いつの間にか彼の方が大丈夫になってくれている。
「ありがとう」
はいっと頷き、黒髪くんは手際よくショートケーキのバーコードを通した。
「ありがとうございまあす、またお越しくださいませーっ」
背中で声が響く。
今日はケーキを食べるのに丁度いい日かもしれない。